子どもたちと見たかった「ガザ 素顔の日常」

毎日のようにニュースで流れてくるガザ地区。
ガザは紛争のイメージが強い場所だけど、しかしここにも日常があり、普通の人々が暮らしている。

そんなガザに住む人たちの素顔の日常を
ドキュメンタリー映画にした作品。

「ガザ 素顔の日常」

https://unitedpeople.jp/gaza/about

ひょんなことで、この映画を知り、
今、再上映がされているタイミングだと知り、
見なきゃ!と思いったって、子どもたちと一緒に3人で、見に行きました。

映画の紹介で出てくる、たくさんの人々。
人々の暮らし。
海、町、空、木々、花などの自然。

ニュースで届くガザの映像と同じような、
灰色の、がれきの、鳴き声に、爆撃音。

笑顔がたくさん見えるけれど、その奥に流れるあきらめ。

「表面的ではなく、本質をみてほしい」

その言葉の意味が何なのか、すごく大きく深い問いのように感じました。

※補足
子どもがみていい映画なのか、いまだにわかりません。
年齢規制はかかってなかったです。が、見たものとしては、なんともいえません。

私は、色々探究した先に、子どもたちの年齢を見て、GOしました。

アンネフランクハウスしかり、
ドイツの教育現場で第二次世界大戦時の自国のことについて、
かなり厳しく教えられるという話をドイツの友人が教えてくれたことをきっかけに、
すごく考えさせられた体験があり。

今も、戦争体験が縁遠くなった子どもたちに、
バトンを渡していくことについて、考え続けています。
どんな人生や命の先に、自分たちが生きているのかということは、大切にしたいので。。。

ふと、感じた違和感

ある日始まったハマスのイスラエル襲撃から、
ガザへの攻撃のニュースがほぼ毎日流れるようになりました。

ロシアとウクライナとの争いを超えて、映像がやはり強烈で。
テレビのない我が家だけど、アレクサが流してくれるニュースハイライトを見ながら、
毎日、子どもたちも釘付け。

最初は、子どもたちも、
「なんで?」「どうして?」と言いながら、
心を寄せていたんですが。

日に日に、
「どっちが悪いのか」
「○○するからダメなんだ」
とか。

評論家のようになってきたのを感じて、違和感を感じるようになってきました。

断片的な情報だけを見て、あれこれ意見を言い始める。
自分の考えを持つことは大事だけれど、
断片的な情報だけを見て、判断し続けることが続くことは、視点が偏ることにも繋がるから。

そして、関心があるように見せかけて、部外者になってしまうから。
この流れは、悲しいなと思っていた矢先に、ドキュメンタリーの情報を見つけました。

これだ!
見に行かなきゃ!
子どもたちと3人で、いかなきゃ!

そう思い。

「ねぇ、今度一緒に映画見きたいんだけど。」

そう声をかけた途端。

「え、いかない。興味ない」

と、ぴしゃり!

そうだよね~、まぁ断られるのは想定内。
なかなか、イエスと言ってもらえないのはいつものことなので、
プレゼン出直しとなったのでした。

3日間のプレゼンで・・・

私が行けるのは、たった1日。
その日は、日曜日。
子どもたちは休み。
ということは、自分の好きなことをしたいと思っている日。

その自分の時間に対しての交渉は、手ごわいんですよね💦

だからこそ、こちらも「なぜ一緒に行きたいのか」を探究することになるんです。

1日目。「いかない、興味ない。」「母、一人で行ったらいいやん」と拒絶で断られ。

2日目。
「また来た・・・。いかないって言ってるやん。」
「母は、なんで行きたいの?一人で行ったらいいやん。」

母、頑張る!
「いきたくないのも、興味ないのも、そうだって思ってる。
日曜日だから、二人の好きなことやる時間に行くことになるのも、知ってるねん。
好きなことやる日を邪魔したいわけじゃないねん。ただ、その日しか、母がいける日がないねん。

だってさ、ガザのこと、何にも知らないやん。ニュースで見える景色だけがガザじゃないはずやん。
本当はどんな場所で、どんな人たちが、どんな思いで生きている場所なのか、知らんやん。
ニュースだけみて、あれこれ言うのは、母は、いややねん。
悲しいことが起きている、その場所で、どんな人が、どんな生きているのか、この映画をみたら、
少しわかるかもしれないやん。だから、みたい。」

「えぇ・・・戦争の様子とか怖いから、そういうのは見たくないねん。」

「母も、そういうのは怖くて、見れないから。そんな映画じゃなかったはずだよ。予告あった!一緒に見てみようよ!」

・・・・爆撃シーンが。。あった(苦笑)

「あるやん、うそつきー、怖いから無理いややって。」

「うえー、知らんかった。母も、怖いのまじで無理やもん。いつもやったら絶対戦争の映画はみない。
でも、母は、映画館の中で、怖い思いするだけやもん。映像の中でお姉さん言ってたやん。
表面だけみないでほしい。本質をみてほしいって。ニュースだけみて、知ったふりしてあれこれ言うの、
母、いややねん。今できることを考えた時、ガザのことを知ることは、できることなんじゃないかなって思ったの。
特に、ニュースで流れてくるような廃墟のガザではなく、本来あるはずの、今もきっとあると願っているたくさんの景色。
そういうのを、ちゃんと知ることは、大事なことだって思ったの。それを、みんなで一緒にみて考えたいなって思ったの。」

「・・・そうなん。じゃ、僕は言ってもいいよ(次男)」

2日目のプレゼン、終了。

3日目。映画前日。

もう、言うことないな。
長男いやだっていったら、それは仕方ないな。
無理して連れていくもんじゃないし、一緒に見ることは、本当にいいことなのか、わからない。
そんなことで頭ぐるぐるしていたら。

「明日の映画、一緒に行ってもいいよ。でも、ゲームの時間が減ったままなのは嫌だから、ゲームができるようにはしてほしい。(長男)」

「そうなん!?一緒にいってくれるん?ありがとう。」

映画に行ったら、いつもより少し時間が短くなることが嫌だということだったので、
ゲームの終わり時間(終了時間が決まっている我が家)を、伸ばして時間調整をして、ゲームの時間の件は解決!

無時に、3人で一緒に行くことが叶ったのでした^^

振り返ってみて

あらためて、映画を見終わった後、
子どもたちを無理に連れて行かなくてよかったと思いました。

ある程度、予告をみて怖い部分があることを知っていた
私のプレゼンの時に、それぞれの思いや気がかりを話せていた
最終的に自分がどうしたいか、自分で決めた

この3つは、今になっては、とても大切で、大きなプロセスだったように感じています。

「怖いシーンが出てきたら、耳塞ぐ」とか、
「本物の戦争のやつは怖いから、いやだ」とか
「手、にぎったら大丈夫かな」とか、
「怖すぎたらどうしたらいいかな」とか、
「おれら、映画やけど、ガザの子どもたちは、本当なんやもんな」とか。

映画が始まるぎりぎりまで、気持ちを共有したり、
それが心の準備に繋がったり。

これらのうえでの映画だったので、
それぞれに、受け止められたところがあったのかなと感じました。

私もリアルな戦いもの(血が出たらダメ)は全般駄目なので、何度か目を背けたし、
同じ瞬間に、長男も目を背けてて、ふたりできゅってなりました。
映画館の、映画だけの話であってほしいと、その瞬間に、心から思いました。

つまんないーって瞬間があってみたり、
身を乗り出してみる時間があったり。

何を感じたのか、何があるのかは、
子どもたちそれぞれのものなので、私にはわからないけれど。
感じたものを大切にしてくれたらいいなと思いました。

映画が終わって、感想とか、ほとんど話さずに、帰ったんです。

私も、言葉にならなかったし、
自分が感じてることをどう言葉にしていいのか、
わからなかったな。

いつもは、○○だったね~とか、このシーンは○○だったね~って、
感想言いあうけれど。

なんだか、言葉にならないものが、たくさんあったように思います。

帰宅して、いつものようにニュースが流れ、
それを見た次男がぽつり。

あの映画にいた子どもたちは、大丈夫なのかな。
みんな、大丈夫かな。

ただただ祈りと。
停戦へのアクションを。

一緒に見に行ってくれて、ありがとう。

引き続き、気になるドキュメンタリーがあるので、見てみようと思います。